空腹絶倒もんのブログ

ただのバンドマンの人間観察

夜に駆ける

 


YOASOBIさんの夜に駆ける

とても好きです。

 

 


恥ずかしながらYouTubeで規制が掛かった云々のニュースを見るまで、何の意味を持った歌なのか全然理解していませんでした。

 

 

 

お店の有線から流れる曲を聴いて
冒頭の

 

"さよならだけだった
その一言で全てが分かった"

 


この最初のフレーズで完全に男女の恋愛観、かつ完璧に今フラれたなと思っていたら

 


まさかの自殺願望、希死念慮に取り憑かれてる方の最期の言葉(挨拶)だという事が書いてあって

 

 

 

この意味合いが分かった途端
わたしの足りない頭と心に衝撃が走った。

 

 

 


なんかフラれてる割に寄り添ったり2人で夜に駆けていったりなんかドロドロだなと思ってた自分を時を戻して殴りに行きたい

 

 

 

 

 

 

 


死期を自分で決める人にはある意味準備期間が出来る。

 

さよならを誰かに伝えて僅かに救いを求めたり絶望したり決めたり決めかねたりそのうち愛した人を共に死に引きずり込んで2人だけの明日へ救済されたいかもしれない。

 

 

 

 

曲についての考察や音楽理論は他の方がされてるので、こちらも面白いので是非見てみてください。

 

 

 

 

わたしが今回異を唱えたいのは規制について。

 


今現在、YouTubeで夜に駆けるを検索したら攻撃的な内容を含むコンテンツですと出ます。

 

 

 

ちょっとまてよ、と

 


希死念慮について語らせたら10000文字を超えるで有名なわたしですが、

 


希死念慮は人間なら全員持ってると思うんです。

 

もっと言えば生きたい、死にたいは意外と身近な選択肢だと思うんです。

 


この作品は人間みんな持ってると思う自殺願望や現実逃避をストーリーとして、フィクションとしてたのしむ(?)事が出来て良いと思うのに、

 

 

 

これは2人で夜に駆けていく様が自殺幇助に繋がるから規制します。というのはいかにも愚直で想像力も乏しくて感性が足りない野郎達だなどこのどいつだよ。

 

 

何年か前にもありましたよね。

森山直太朗さんの生きてることが辛いならそっと小さく死ねばいい
という歌詞について一部の方がムキー!となってた事が。


安易安易安易ーーー☝🏻

 

 

 

 

 


話を戻すと

ちろっと↑でわたしが述べた

 

 


"愛した人を共に死へ引きずり込みたい"

これが究極なのかもしれない。

 

 

 

これもこの曲を聴いたり見たりした想像の一部の軽い擬似体験だと思うんです。

 

 

 

同じ気持ち(揶揄)になるくらいの人に出会えた男女の愛というか、死の引力というか

 


こういった男女のスーサイドストーリーを直接的な表現ではなく受け取り手に任せますと投げかけられた作品に対して

 

 


生きる応援歌なんじゃ…?とか2人の愛だとか悲しいとか美しいとか色んな感情がぐるぐるして忙しくなってとても心が動いた。

これは紛れもなくわたしの感情。

 

 

 

というかぶっちゃけ言うと怖いとか悪いとかやっぱり自分たちで死ぬなんて…というマイナスな感情は微塵も湧かなかった。

 

 

 

 

人それぞれの受け止め方を否定し、
これは自殺を揶揄しているから危険と判断し、それが規制に繋がるのはどうなんだ。

 

 

 

本来は夜に駆けるで道徳の授業が出来るくらいの題材だと思うし

 

 


その元となったショートストーリーの「タナトスの誘惑」はもはや神話の粋なのだ。(これも読んでほしい)

 


それが悲しいとか辛いとかそれも否定してはいけないただの一部の感想が、"このコンテンツは危険だ"に向く事、その方が狂ってる人間性街道をただ真っ直ぐ歩んでるとわたしは思うが。

 

 


死を直接的なワードを出さずにこうして題材として持ち出して色んな事を色んな視野で考えさせてくれるアーティストは大変貴重であり国宝です。攻撃する対象ではありません。

 


よく分からん規制やめてこ。

 

 

 


ラクル☆ナイト