戦後75年
わたしは他県の人間で8/6が出校日でも無ければ、黙祷をする習慣も無い。
わたしの祖父は戦時中、駐屯兵として沖縄に行くか新潟に行くかの選別で"運良く"新潟行きになったとよく言っていた。
新潟で祖母に出会っているのでわたしがこうして今居ると言う事は、運良くという表現で合っているのかもしれない。
運良くわたしが居る。
祖父はあまり被害者目線で戦争の事を言わなかった。
むごい事はサラッと言っていた。
アメリカ兵の事もお国様の事もどちらが悪いとも言えないような事を言っており、
おじいちゃん、おばあちゃんに戦争の事を聞いてみようという学校の宿題も捗らなかった。
ある意味当事者なのに外側から物事を見る人だったように思う。
わたしにもこのクセが付いた
平和学習で戦争の事について書く感想文にも
強い恨みには引き金がある。戦争に被害者は無い。原爆を落とされた原因を知り、始まりを知りたい。被害者になってばかりではいけない。と書いたがビーッと線引かれて訂正(しろ)って書かれてた事あった。
弔う文を書かねばならなかったらしいが中学のわたしには難しかったと思う。
広島に来てから8/6付近には異様な空気の重さを感じる。
この空気はおそらく一生
晴れない
今日は祈りを。
ミラクル⭐︎ナイト